僕と言う存在の違和感について3
テロリストに捕われて、24時間後に殺されます。
というときと、
老化により、40年後に死にます。
と言う時に、一方では、それを回避する可能性があるが、もう一方には、その可能性が、全く無いと言う事の、あまりにもの違いに、みんな愕然としないのだろうか。
僕と言う存在の違和感について2
「僕自信」という言葉をそれ以外の僕を含む単語と微妙に使い分けていることに気づいた。
多分、永井先生の著書を読んだせいかも。。
今後はあえて、僕自信という言葉を積極的に、使ってみよう。
積極的に使うなかで、どんなことが、僕自信に属さないのか、えぐっていこう。
うん、良い考えに思える。
少し、気分が良い。
僕という存在の違和感について1
違和感の正体をまだうまく表現できていない。
うまく表現できないことがもどかしい。
しかし、なんとか文字にとどめておきたい。自分のために。
壁紙が古くなっていく。
体が老いて、肌にシミが増えていく。
この2つのことに、あまり違いを感じない。
壁紙は古くなったので、取り換えようと考えることができる。
しかし肌のシミは安易に取り換えたりすることのできるものではない。
しかし、壁紙が僕自身に影響を与える程度にしか、肌のシミも僕自身に影響を与えないのではないか。。そう思うようになってきた。
二元論を唱えようとしているのではない。
誤解を恐れずに言い切ってしまうと、僕の体はもはや僕自身にとって、壁紙程度にしか影響を与えないものになってしまった。少なくとも僕自身はそんなことはないと思っていた。しかし、他人は僕の肌のシミと壁紙の汚れの間に、基本的に何の違いもないと思っているにちがいないと確信することができる。
そして、僕自身も、僕自身だと思っていたこの体が、実はそうではなく、僕自身に壁のシミ程度の影響しか与えないよう何かなのだということに気づいてしまった。
おそらくそれが、違和感の正体。
まだ、うまく書き表せてないが、少しずつその正体を暴いてみせる。
きっとそれを突き止めることができると、何かしらの生きにくさを理解できるはずだから。
壁のシミと肌のシミ
壁が日に焼けて色があせてくる。
肌が老いてシミが増えてくる。
なんの違いがあるだろうか。
他人の肌のシミも、色あせた壁も、私にとって本質的になんの違いもない。(単語を正しく使えているか自信がないが、構わずに進む。)
しかし、自分の肌のシミが、大きくなっていることに気づくとき、とても受け入れ難い何かがある。
いや、自分の身体だから認めたくないだけであって、誰だってそうだからしかた無いでしょう?
と恐らくは誰しも思うはず。
私も少し前まで、基本的にそう思っていた。
しかし母親が倒れてから特に、そのようなことに大変違和感を感じるようになってきた。
老いも死も大変受け入れ難い。
昔から死ぬのは嫌だとは思っていたし、今もそうだが、何というか、嫌の感じ方が、違うのだ。
何かしら、、なんと言っていいのか、とても違和感を感じる。
みんな老いと死について、どのような納得のしかたをしているのだろうか。
もしくは、諦めてただ考えないようにしているだけなのだろうか。
疑問は2つある
・この違和感はなんなのだろうか。
・何故母親が倒れてから強く思うようになったのか。
老いに気付く
新品の畳を見て、これまで使っていた畳がいかに古くなっていたかに気づき、驚く。
毎日毎日、少しずつ日に焼けて変色していたはずなのに、毎日見ていたから、色が変わったことに気づいていなかった。と言うことだろうか。
毎日毎日、少しずつ確実に老化しているはずなのに、昨日と今日の違いが、わずかすぎて、そのことに気づいていない、気づこうとしない、もしくは、敏感に気付いても無意識に気付いてないふりをして、考えることをやめる。
だからこそ、狂わずに、辛うじて明日を迎える事ができるのだろうか。
老いを強要されることについて
老いるということについてとても違和感を感じる。
89歳の母が脳梗塞で、倒れて死が訪れようとしていることと、例えば、40代の私が、脳梗塞で、倒れて死ぬ事との間に何の違いが、あるだろうか。
一方では十分、長生きな人生だったでしょうね。となり、もう一方では、こんなに早く亡くなるなんて。となる。
方や老人で、方や壮年世代というだけが、違いなのに。
この違和感は一体なんなのだろう。
常識的な考えと違う事を言っていることは、わかっているつもりですが、別に奇をてらって、言っているわけでもないのです。
老いたから死を迎えなければならないことをまわりの皆が、無意識に?受け入れていること、さらにそのことを自分以外の他人にも無意識に強要していることに、とても違和感を感じるのです。
老いて死ぬことの理不尽さ
母は、89歳なので、例え死が訪れようとも、老衰死と言ってもよいだろう。
医療を尽くしても、衰弱は止めることはできない。
このまま死を迎えることについて、母本人以外は、仕方がないと考える。
しかし母の立場に自分を置き換えてみた時に、そのことの、理不尽さに改めて気づき、本当に驚く。そして、なんともいえない恐怖を感じる。
これまでは、どんな理不尽に思えることにも、それを回避する方法が、あったはずだ。
それが、全く無いことの、その、理不尽さよ。
この世の何者にもすがることのできない、その理不尽さよ。